日蓮宗とは


宗旨

宗旨
名 称
日蓮宗
宗 祖
日蓮大聖人(1222〜1282)
法華経の中から選ばれた宗祖のお名前がそのまま宗旨の名称になっています。
開 宗
建長5年4月28日(1253)鎌倉時代
御本尊
久遠の本師釈迦牟尼仏
題 目
南無妙法蓮華経
経 典
妙法蓮華経(法華経)
総本山
身延山久遠寺(山梨県 南巨摩郡身延町)
現 状
日本全国の他、世界各国に約5300ケ寺の寺院があり、檀信徒の数は推定で350万人に及びます。
日蓮宗の寺院は帯広市内には1ヵ寺十勝管内には現在9寺院(注1)あります。
注1 住職不在(代務含む)の寺院、結社は除く

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日蓮宗

日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである 法華経をよりどころにする宗派です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人宗祖と仰いでおります。
本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に励みこの教えをめることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人のしあわせにつながる事を確信できる教えであります>

日蓮宗『宗旨』「教義」より

日蓮宗は、日蓮聖人(にちれんしょうにん・1222-1282)を宗祖とする日本の伝統ある宗派です。

日蓮聖人は、妙法蓮華経(法華経)(みょうほうれんげきょう・ほけきょう)に説かれた釈尊久遠のみ教えを深く信じ生涯を通して実践されました。

聖人が身命をかけて実践されたのが法華経の教え・南無妙法蓮華経のお題目です。お題目を私たちが一心にお唱えすることにより、法華経のみ教えへの「信」もより堅固なものとなっていくのです。すなわち、南無妙法蓮華経とは、法華経の説く真実に帰依することなのです。

身延山久遠寺は、日蓮聖人により1274年に創建された、日蓮宗の総本山です。日蓮聖人が晩年の8ヵ年をすごされた身延山は、宗祖棲神の地と呼ばれ、私たちの尊崇を集める最大の聖地です。そして、全国各地にある日蓮宗の寺院を包括している宗務院は、日蓮聖人が教えを私たちに託し、ご生涯を閉じられた聖跡である東京池上にあります。


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覚り

釈尊の説かれたあまたの 大乗経典の根底に流れているこころは、 衆生にはことごとく 仏性、すなわち仏さまの境地に向かっていく性質が宿っていて、誰もが、仏になる、あるいは覚ることができる可能性を秘めているということです。人間という存在も、信仰・国籍・性別・人種・肌の色などの違いを超えて、皆この仏性を宿しているのです。覚りへの長い努力は、まず自分の本来のあり方に目覚めることからはじまります。

釈尊は、法華経の中で、「今この 三界 なこれ 我が有 その中の衆生はことごとく我が子なり」「衆生をして 無上道に入り、速やかに 仏身を成就することを得せしめん」と示されています。

この釈尊の 大慈悲に眼を開かれた日蓮聖人は、私たちの仏性を目覚めさせるためにご一生を捧げたのです。そしてこの救いの道は、唯一、法華経のみ教えにあると確信されたのです。


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日蓮聖人

日蓮宗の宗祖、日蓮聖人は、 承久4(1222)年2月16日に現在の千葉県 天津小湊に生まれました。11歳の時に、勉学のために清澄寺へ登りました。幼少時より、釈尊の説かれた真実に導く道はひとつであるのに、なぜさまざまな宗派が生まれ、まるで競い合うようになってしまったのかと疑問を抱かれました。16歳で、 清澄寺にて出家され、そののち、諸国を遊学し数多くの経典や書物から学び、法華経こそが釈尊の真実の教え・最高の経典であると確信されました。

そして再び清澄寺に帰り、ついに自ら 感得した釈尊の 真意を世に顕すため布教を開始されたのです。広大な太平洋を見渡す「旭が森」で、水平線に昇りくる朝日に向かってお題目を高らかにお唱えになったのです。その時の宗祖の唱題の声こそ、天地へなされた「 立教開宗」のお題目でした。 建長5(1253)年4月28日のことです。


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龍口法難

日蓮聖人はただちに幕府の都ある鎌倉へ向かい、法華経 弘通を開始されました。鎌倉の都は 御家人の間に軋轢が広まり、政変のうわさも広まっていました。加えて、地震、洪水、疫病、飢饉などの相次ぐ災害、加えて夜空に不気味な尾を引く大彗星の出現は不安を増幅し、人々は混乱の極みにありました。

日蓮聖人は、再び一切経を閲読し『 立正安国論』を執筆し、国土や人心が乱れる原因は幕府の愚かな と、誤った信仰の流布、すなわち人々が正しいみ教えに背いているところにある、今すぐに正しい仏法である法華経に帰依しないと未だ出現していない 自界叛逆他国侵逼が起こり 未曾有の災いが巻き起こると説いたのです。

日蓮聖人は、『立正安国論』を 北条時頼上呈するとともに、都の辻で道行く人々に説法を繰り返したと伝えられていますが、このことが幕府や日蓮聖人に誤りを指摘された人々の反感を増幅しました。誤った教えだと非難された他の宗派の僧らの憤激は激しく、以後幾度となく迫害を受けることになります。中でも、鎌倉 松葉谷草庵焼き討ち・ 伊豆流罪小松原の襲撃・ 龍の口の頸の座につづく3年にわたる 佐渡遠流が4大法難として有名です。

生涯、幾多の逆境にあっても日蓮聖人の法華経弘通の熱い思いは、衰えることはありませんでした。聖人は生涯にいくつもの著作を著して仏教の流布についての疑問に答えていますが、佐渡に流されていた間には、このうち2つの重要な御遺文を著されました。そのひとつの『 開目抄』では、ご自身が 経文に預言された法華経弘通者との使命を自覚し、『 観心本尊抄』では、久遠の釈尊と永遠の救いの世界のすがたを示され、この会得した世界を 大曼荼羅に顕されました。

やがて、日蓮聖人が『立正安国論』で予見した 蒙古襲来が現実のものとなり、聖人は佐渡流罪をゆるされ、鎌倉に呼び戻されます。しかし、権力者たちは宗祖の 諫言に耳を傾けることはありませんでした。「三度いさめて用いずば山林に入るべし」の故事にならい、 文永11(1274)年、日蓮聖人は帰依篤い 南部公の待つ身延山に入り、 示寂されるに至るまでの8年間身延の地を出られることはありませんでした。身延では自らの教えの完成と弟子信徒の教育に専心され、『 撰時抄』『 報恩抄』に代表される数々の御遺文を遺されています。『撰時抄』では、 仏法弘通の時を論じ、 末法の今こそ法華経の弘まるべき時であることを示されます。『報恩抄』は 健治2(1276)年、恩師の 道善房の死去の報に接し、報恩 回向について真情を述べられたものです。

弘安5(1282)年9月、身体の衰えた日蓮聖人は、 湯治療養のために山を下り、常陸の温泉に向かいます。旅の途中、にわかに衰え、 武蔵国の池上氏の邸でご休息されますが、自らの示寂の近きことを知り、最後に『立正安国論』を講じ、10月13日、弟子らに囲まれながら、日蓮聖人は60年のご生涯を閉じられました。墓所は自らの魂が留まる身延山にとの聖人の遺志により、ご遺骨は身延の地に納められました。


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『法華経』と釈尊

仏さまは何のためにこの世にお生まれになったのか。

それは、この世の真実を明らかにし、一切の人々をその真実の世界に導き入れ、覚りの境地を体得せしめるためである。苦悩に満ちたこの娑婆世界が、そのまま仏さまと共なる永遠不滅の浄土であることを、仏さまは一切の人々に知らしめようとされたのである。(方便品=取意)

『法華経』は八巻二十八 から成ります。法華経を信じる私たちは、この経典こそが釈尊が教えの神髄を表した「仏法を敬い護り伝える」ものであると信じています。仏法は、美しい散文で伝えられ、巧みな説話や、 寓話譬喩 、超自然的洞察力に富んだ記述、形而上学的議論にあふれています。この世のすべてを 俯瞰する記述が、時空を超えて広がります。

説法が多彩で豊かなのは、釈尊が、聴く者の境涯と感受性に合わせて、「 方便」を用いたからです。つまり、 正法への帰依に目覚めた者には、仏になる道へのさまざまな門が開かれているのです。

法華経は大きく二分されます。最初の十四章まででは、人間という存在すべての性質に共通に内在する現実の姿が描かれています。人に本来そなわっている仏性に気づくことで、覚りへの道が開かれるのです。

十五章以降、特に法華経の説法の中心ともいえる十六章では、諸仏世尊のもとにあるこの世界の姿と存在の永遠性が明かされ、以後の章では末法におけるこの教えの 流通の重要性が述べられます。

インドに生まれ、覚りを示し、仏法という真実を照らし出す大光明を放った釈尊は、実は永遠の昔に成仏し、この世界の救済を誓われた 久遠実成本仏である、その仏は現在もこの世にましまして闇を照らし、仏になる道をさまざまな方法、そして教えを求める菩薩たちの実践を通じて指し示し続けている、これが法華経の説法の大きな流れです。


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お題目

日蓮聖人は、祈りのかたちとして、妙法蓮華経というお経の題名、すなわち「題目」を唱える祈りを私たちに示されました。「南無妙法蓮華経」とは、真実の法華経のみ教えすべてを包み込んだ無上の良薬、その尊いみ教えの働きへ「南無」、すなわち帰依し、心と体すべてで信じ続けますという意味です。

法華経への深い理解から、日蓮聖人は、仏の本意と仏への帰依の実践、そして末法においては誰もが行ずることができる祈りのかたちの必要性を深く探究されました。その答えこそ、お題目を唱えること、「唱題」です。お題目は単にお経の名前や、釈尊の覚られた真理を表す経典への帰依をかたる言葉ではありません。そこには法華経の説法に込められた仏の大慈悲、すなわち、私たちを仏の境地に導こうとする釈尊の誓願と功徳のすべてが包み込まれているのです


御本尊

日蓮宗の御本尊の中心となる大曼荼羅は、日蓮聖人が佐渡流罪中に感得されたものです。 口唱を基本とするお題目に呼応して、この御本尊は、それを図に顕して目に映えるようにしたものです。それは、偉大な 真理つまり、久遠の仏の覚りと救済があまねく世界に満ちたこの世のすがたをあらわしたものです。

お題目を一心に唱えながら、御本尊を礼拝していますと、いつしか、信仰者は、久遠の釈尊が遍く発する慈悲と 智慧の光で包まれ、その救いの中にいる自分の姿を見ることでしょう。この釈尊の覚りの世界の中に抱かれているという境地に至ることを、仏教では 感応道交といいます。


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身延山久遠寺

身延山久遠寺は、日蓮聖人が創建された、日蓮宗の総本山です。この宗祖棲神の地は日蓮宗はもとより、全国の法華系教団の人々の尊崇を集める日蓮宗が世界に誇る最大の聖地です。

日蓮聖人は、文永11(1274)年5月17日、身延山に入られ、身延の地を寄進された大檀越波木井実長(だいだんのつはきいさねなが)の手篤い給仕と外護を受けます。弘安4(1281)年、久遠寺が創建され、聖人を慕う弟子・信者が集い、示寂する年に至るまでの8年間、身延山を出られることはありませんでした。末法の弘通を託すべく弟子・信徒への教導が行われ、さらに法華経信仰の完成に向けて、数々の著作を遺されました。

弘安5(1282)年9月8日、自らの病の重いことを悟った日蓮聖人は、弟子のすすめで湯治治療のため、入山以来はじめて身延山を下り、常陸の温泉へ向かいます。しかし、旅の途中、武蔵国(東京都)池上で、にわかに病状が深まり、10月13日、遷化されます。<いづくにて死に候とも墓をば身延山に立てさせ給へ>との日蓮聖人の遺志にしたがい、ご遺骨は身延山に納められ、身延西谷に御廟所が建立されました。


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