当山のあゆみ

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当山は、明治43年、開山上人の叔父、内山孝太郎(当時種物商)を開基として、後の京都本国寺貫首真鍋日應師の弟子内山智耀師を招き、大正6年自力を以て本堂庫裡をほぼ完成、同師を開山として大正11年寺号公称なる。ここにおいて叔父孝太郎翁の位置山建立の悲願成就、爾来、開山の妻はつ女の内助の功尠なからず。帯広市市街の東端に位置する全くの一軒屋、野狐、野兎、の郡来も累々で(こんばんわ)の灯ちんをつけて淋しい葭原の夜道を酒買いにやらされることは、本当に辛かったと聞く。


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開山、開基が一体となって言語に絶する困苦欠乏に堪えて教線を開拓、その間、開山の実兄の内山忠治郎氏の外護もあって、昭和8年に至って漸く百数十の檀信を有するに至り、一山運営確立の機運熟するに及びしも、此処に萬止むなき事態が発生、開山上人夫妻は、札幌山鼻の立正教会に隠棲、豊平経王寺の執事として糊口を凌ぐこととなる。
  その後、問題惹起したるも檀徒の熱望と、開山の兄、内山忠治郎氏の財政的援助により、札幌経王寺との和解なり、昭和9年秋、再び開山上人が第三世を継承することとなり、檀徒の歓喜言語に尽くし難し。これを契機として当山の再起に昼夜を分かたぬ住職夫妻の努力は世人をして涕せしむ。

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当時小衲は、身延山遊学中なるも、当時身延山久遠寺の執事長中村是本僧正を通じての斡旋の労縷々なるも、意を決し難きところ、偶々帯広より老師危篤の報あり、中村執事並に学監の督するところもあり、急遽皈道、病床を訪しも急に回復の徴候有り、そのとき初めて老師と小衲の恩師、田中耀運上人(札幌光明寺開山)の過去における因果関係を通じて、老師が小衲との深い法縁関係であることの説明があり、後事を暗に託さる。両三日滞在するうちに茶の間に出て談話される状態にまで回復、学業のことも案じられ皈山を督される儘に辞去して身延に皈りたるに、三日目に遷化の悲報に接し、暗然として再び皈道、告別に参列する身となる。

昭和14年3月17日、祖山高等部を卒業後一時札幌に皈り、昭和15年春帯広へ移り、同年8月28日住職承認、第四世の法燈を継承、ときに27歳なり。

妻スミは、先代老師の姪にして山崎家の三女なり。当山今日の隆盛の蔭に檀信各位の護持は勿論、内山孝太郎、内山忠次郎、山崎太作翁等の功績は当山の基礎的軌範にして、現在の境内地寺号公称時より昭和45年に至る堂宇の基礎建築は、先代並に一族の寄進せるものにして、先代夫妻が、「内山寺」と呼称したるもむべなるかな。

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 昭和18年、大東亜戦争が長期戦の様相を呈し、同年8月小衲も応招、旭川に入隊、十日後北支方面に送られ殆ど前線で過ごすこと4ヵ年なり。三度の負傷を乗越えて21年5月6日(先代の征月命日)に無事皈還せり。仏祖、先代上人の加護の賜か。

爾後、復員を復活と思念して粉骨砕身を決意して不在中兵舎代わりに利用され荒廃に委せた堂宇の修復に併せて、無惨な状態に処置された納骨納牌堂の新築を計画せるも認可の見通しは全くなく、物質の入手にもその方策なきに、篤信の市内東二條南十一丁目菊地建設社長(清氏)の謀と犠牲的配慮により昭和22年春旧本堂の裏手に25坪の新築を完成、全く散乱放置の遺骨と位牌を整理し新納骨納牌堂に移し得た観劇に菊地氏と抱合って男泣きした想出を菊地氏が東京に移ってからも会うと語り草となる。

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昭和23年、芽室実勝寺の寺号公称、開基先代、開山小衲、本樹山実勝寺と号す。

昭和25年、身延山大荒行堂壱百日を成満、修法布教師となりその後保護司、婦人少年室協助員、宗教教誨師、宗門の専任布教師布教師会長、宗務所長、昭和48年より日蓮宗宗会議員二期等、自坊の運営と共に渾身の活動に微力な充実感と法悦を覚え健康の有り難さに合掌せり。

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昭和33年3月末、孫の手を引き戸外に出た祖母はつが脳溢血で倒れ、爾来60日、伏臥の儘微動だもできぬ重態となり、同年5月14日他界せり。家族を愛し、隣人を愛し、殊更に孫を愛してくれた義母の死は、実母のそれよりも悲しく、果実を好んだ「ばァちゃん」の形見のような曾孫が一人いるのが無精に可愛い。

昭和43年2月1日より帯広NHK放送局の旧局舎の払い下げを受け、芽室実勝寺の空地と町より購入の土地を園地として、用事の宗教教育を確立すべく私立幼稚園を設立、立地条件の困難を克服して、昭和45年園舎増築、学校法人十勝立正学園芽室幼稚園の認可。この間納骨納牌堂の増築前後3回に及ぶ。

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昭和53年春頃より、来るべき宗祖七百遠忌事業の企画を意図し、現今の社会情勢よりみて、本堂外の客殿の必要と納牌堂の増新築(不燃性)、団体用の厨房、トイレ、客間、控室の必要を考慮最小限度8500万円の概算予算で発足、勧財方法は小衲も最早老境故に生前に住職としての責任上より考えても生涯に一度は檀家各家を全部訪問して死にたいとの念願もあり、余生を懸けて住職独りで体の続く限り勧財を兼ねて廻る覚悟を決め、総代一同の了解も得て、53年秋より毎日午後から夜にかけて幾軒づつか歴訪した。

二年有余の歳月の上に約一億に近い浄財の記帳となり、巡った件数も約四百を数え勇気倍増するも寒さと疲労のためか遂に二週間入院、その後も今日まで医薬の世話になりつつも勧財を続け、昭和54年9月、一億円を超える巨額の記帳を頂き、建設委員会を30名で構成、常任委員7名選考の結果、小室正氏(当時信金専務理事)が委員長に就任、設計を松田設計士に依頼、同年4月1日より萩原建設の施工により鉄骨モルタール客殿、位牌堂、厨房などの工事に着手した。

昭和55年5月には浄財記帳1億3000万円に達すに至るも、旧屋舎の老朽、雨漏等の増改修築など予想以上の附帯事業のため、昭和56年4月末日工事完了せるも当初予算を遥かに超過、結果的に6月27・28日挙行予定の式典費の財源を改めて造成せざるを得ない状態となり、ここに新たに式典実行委員会を構成、108名の方々を委嘱して委員総会の決議により式典費として1000万円の予算を計上、20名の常任委員が選ばれ、小室吉助氏を委員長に推挙、御承認を得て早速再度の勧財に発足した。

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式典委員会宅は訪問、其の他一般檀信徒は文章を以て復信による勧財となり、殆ど委員長と住職は連日市部郡部の委員宅を訪問、浄財記帳の予想以上の成果を挙げ、管長貌下直筆本尊の申込者も11名に達し、その他文章勧財の方も好成績で、昭和56年6月中旬、1300余万円の浄財記帳となり、立派な式典が挙行されましたことを御報告申し上げますと共に、委員長、住職として厚く御礼申し上げます。